湯河原〈ゆうゆうの里〉

妻を失ってしばらくは心に開いた穴が埋まらなかった。終末期を生きる術としてここを選んだが、ここにはもう一つの人生があった

湯河原〈ゆうゆうの里〉鈴木秀則様(82歳)

(一貫して、成長産業を支える希少海外資源を扱う仕事に従事できました)yg_happytime24.jpg

大学は応用理学選考で、卒研は「水素吸蔵合金の開発」。今でこそ自動車の脱炭素燃料として脚光を浴びるようになりましたが、当時はまだ早すぎました。卒業と同時にエレクトロニクス関連の希少資源を海外から輸入する専門商社で働き始めました。日本の次代の成長産業を支える上で必要な資源を調達することにやりがいを感じつつ、半導体の分野で業績を伸ばしました。1975年には半導体不況にかかわらず...

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絵本作家として動物観察に明け暮れました。今は海の見える部屋でゆったり暮らしています

湯河原〈ゆうゆうの里〉鷲尾 敏子様(90歳)

(絵本を書くことがまさか仕事になるとは思わなかった)yg_happytime22.jpg

東京下谷区(今の台東区上野公園の近く)の生まれ、6人きょうだいの中で育ちました。集団に入るのが苦手というか、一人で考えるのが好きな子供でした。小学校3年の時、上野動物園に遠足で行った時に書いた作文が先生に大変褒められました。それは園で出会った動物たちのことを全部書いたもの。あれが私の動物絵本の始まりだったかも知れません。女学校時代は...

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選んだ仕事をまっとうし、妻との時間も手をぬかず、まっすぐに自分の人生を歩いて来れたのかな

湯河原〈ゆうゆうの里〉若㔟 憲一様(76歳)

(出版社に入社してから引退するまでの間、水道事業のための仕事をしました)yg_happytime20.jpg

大学を卒業した時は全く就職するつもりがなく、翌年の一月に新聞を見て応募したのが水道事業を専門に扱う出版社でした。その年の10月に大阪転勤の話があり、新人のくせに立候補して転勤を勝ち取りました。僕は東京育ちだけど、大阪はとても肌に合っていました。水道の水は絶対安全でないといけない。水道局が管理し...

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自分の人生を自由に生きられる。子供がいなくとも幸せなんだと思えるようになりました

湯河原〈ゆうゆうの里〉後藤 哲子様(78歳)

(30代半ばで出会ったダンスが、私の生涯の支えとなりました)yg_happytime18.jpg

子供がいなかったので趣味が欲しいと思っていました。30代半ばでダンスパーティーに行ったのがきっかけで、ステップだけでも覚えたいと・・・。ステップと言ってもワルツだけで20種類もあるし、タンゴやルンバも夫々にステップやターンがあるの。でも、先生に「ゆっくり覚えればいい」と言ってもらって、週3日の個人レッスンを受けることにしました。3年もすると...

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主人の写真に毎日話をします。幸せだったなと、思い出します

湯河原〈ゆうゆうの里〉岡田 眞左子様(93歳)

(「あの時の苦労を思ったら何でもできるわね」)yg_happytime16.jpg

日本橋、小舟町生まれの江戸っ子です。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)付属幼稚園に入り、それから女学校まで、ずっと同じ学校に行かせてもらいました。幸せな時間を過ごせたのは両親のおかげです。女学校に上がった年の12月に戦争になり、最後の半年は工場動員され高射砲の信管づくりをしました。3月9日の大空襲の晩は、夜勤をしていまして...

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「終わりよければ全てよし」にしたい。ここは、それができる場所

湯河原〈ゆうゆうの里〉荘司 了俊様(80歳)yg_happytime14.jpg

(寺の24代目として生まれ、寺に育つ)

太平洋戦争が始まった昭和16年に、代々続く寺に生まれました。食糧難で4歳の時には母の実家に食べ物をもらいに行った記憶も今では懐かしいです。幼児教育が盛んになってきた頃に先代の父が幼稚園を始めました。私も申請や設計から携わりました。自分の考えを形にして行く楽しさを感じたものです。私が先代から引き継ぎ大事にしていたことは子供たちを自由に遊ばせること。子供は...

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ゆくゆくはみかん畑を背負って海を眺められるようなところに住みたいと思っていました

湯河原〈ゆうゆうの里〉鈴木 眞人様(76歳)

(生徒の味方、熱血教師と音楽教師の妻)yg_happytime12.jpg

高校の教師をしていました。どっちかというと、はみ出しっ子とか登校拒否の子とか家庭に問題のある子の立場に立っていつも駆けずり回っていました。東大に行くような生徒から、取り残されていくような生徒まで全部面倒を見ました。女房は音楽教師。共働きなので、先に帰った方がご飯の支度をするのが我が家の大原則でした。共働きという結婚形態を選択したら男女同権が原則です。学年主任を...

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湯河原〈ゆうゆうの里〉は、両親のいた別荘のようなところ。主人亡き後は私の居場所になりました

湯河原〈ゆうゆうの里〉小寺 紀子様(82歳)

(お見合い相手は父とはちょっと違う、白馬の王子様)yg_happytime10.jpg 

女の子はお嫁さんになるために学校にいくものという時代だったので、自分と妹は私学で女の子らしく、弟は公立から東大に入るものというのが父の考えでした。私の父も、主人の父も日銀で共通の知人がおりました。その知人の三男のところに嫁いでいた叔母が、主人の母に取り持ってくれてお見合いとなりました。主人は...

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ボランティアを通して、人とつながり、それぞれの価値観に出会うことが楽しい

湯河原〈ゆうゆうの里〉渡邊 詢子様(79歳)

(演劇に夢中だった日々) yg_happytime8.jpg

父は電電公社の海外駐在員で私は北京で生まれました。戦争が始まる前に帰国し横浜の母の実家に住むことになりました。私が小学校6年になるまで、そこでは母の兄と子供が3人、祖父と祖母、母と私と弟の合計9人が一緒に暮らしました。母は公務員として働いていたので、私は人が困っていたら自分がやらないといけないと、お風呂の水くみや祖母の手伝いをする子でした。中学校、高校では演劇部に。夏休みは...

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二人とも新たな自分になりました!ここは自由自在に生きて行けるところだから

湯河原〈ゆうゆうの里〉古居 儔治様 (80歳) ・要子様 (79歳)yg_happytime6.jpg

(三惚れ主義で地元に尽くす)
ご主人 豊橋の出身で東大法学部を卒業し国家公務員に。自治省に勤務して、最初に赴任したのが兵庫県庁で、妻とはそこで知り合いました。その後島根県、石川県にも勤務しました。それぞれ初めての地で、苦労もしましたが、楽しい思い出もあり第二の故郷になりました。どこに勤務しても自治省の先輩から教えてもらった「仕事に惚れ、土地に惚れ、女房に惚れろ」という主義を貫き、その土地の歴史・文化を真剣に学び、仕事にベストを尽くしました。その後に...

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『入居者にしてもらったことを良い習慣として受け継いで行きたい!』

yg_happytime4.jpg湯河原〈ゆうゆうの里〉 古舘 貞雄様(78歳)

(ありし日の妻との日常が一番の思い出)
28歳で再就職しましたが、その会社が吸収合併されることに。そこでアルミ製品の会社の新工場の立ち上げを命じられました。そんな激動の会社生活が始まる年に、近所のおばさんに紹介された妻と結婚しました。仕事はやりがいがあり、がむしゃらに頑張りましたが、彼女は本当によく支えてくれました。5人兄妹の中でも一番優しい性格でとても素直で正直なところが気に入りました。どんなに・・・。


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『癌の後遺症からも復活 いまは想像もしなかった生活がある』

湯河原〈ゆうゆうの里  星野 之子様(78歳) 顔写真.jpg

(子育てに協力してくれた母の介護)
 高校を卒業してからビクターの下請け会社に勤めて、その後米軍基地でタイピストとして働いていました。前の会社で知り合った主人と結婚。そして息子が誕生し、育児と仕事を両立しようと頑張ったのですが、息子が10か月で麻疹になってしまって。その時、母が自分の仕事を辞めて手伝ってくれるようになったお陰で仕事を続けられました。私が42歳のときに、その母が要介護になって自宅で看ることにしたのです。長い自宅での介護の後・・・。

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『今は亡き夫が選んでくれた施設で、幸せに暮らしています。』

湯河原〈ゆうゆうの里〉江藤 明子さん(75歳)yg_voice16.jpg

結婚後も、デパートで販売の仕事をしていました。販売の仕事が好きで、誇りを持っていました。電話対応、包装、弁論大会(棚卸)などのコンクールではすべて優勝し、それらを認められてトレーナーを任されました。
ちょうどその頃、舅の具合が悪くなったこともあり、仕事を辞めようか悩みましたが、主人の「やるだけやってみたら。」という言葉で続けることができました。新入社員の教育、店内を回って販売員の対応やディスプレイ、ポップの指導など仕事も楽しく充実していました。そして定年になると...

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『妻との思い出を胸に自分らしい終の棲家へ』

湯河原〈ゆうゆうの里〉市川 義一さん(79歳)yg_voice15.JPG

独身時代は山岳が好きで高い山へ登っていたけれど、結婚後は妻に山登りを教えて、二人で低い山登りを楽しみました。もともとが東北育ちの為、山野草や自然が大好きで、四季折々に新しい発見や感動があります。それに、厳しい山に自分の足で歩いて頂上に立った達成感がなによりです。また、山道や休憩所での人との出会いも楽しくて、日本百名山を殆んど制覇しました。暇さえあれば富士山によく登りに行ったものです。特に...

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『私の明るさは負けなかったから・・』

湯河原〈ゆうゆうの里〉小峰 妃佐さん(78歳)yg_voice20170507.JPGのサムネイル画像

独身時代は、スキー・バレーボール・ダンスと、体を動かす事が大好きで活動的でした。しかし、24歳にスキー場で大事故にあってから、色々な病気との闘いが始まった気がします。卵巣膿腫、胆石、突発性難聴、メニエール病、腰部脊柱管狭窄症、湾曲症、憩室炎、バセドウ病、尾骨脊柱管狭窄症、黄斑前膜症、上行結腸憩室炎下血、変形性膝関節症、手術も沢山しました。腰部脊柱管狭窄症の治療は...

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『入居して掴んだものはカメラと水彩画の楽しい人生』

湯河原〈ゆうゆうの里〉藤村 徹さん(78歳)・明子さん(71歳)

yg_boice13.JPGご主人「ある日、カメラを下げて旅行に行く姿を見られ、声をかけられたのがきっかけで写真サークルに入る事になりました。メンバーとの撮影会では、季節を楽しみながら、色々な場所を知りました。外の撮影は、太陽の日差しが時間との戦いで、後悔する事も多く、後日同じ場所に何度も行って撮り直しもしました。そして、毎年一瞬にして消えてしまう花火をどうしても撮りたくて挑戦していますが...

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『喜びは皆と分かち合い笑顔のある人生を』

湯河原〈ゆうゆうの里〉古郡民雄様(84歳)・迪子様(82歳)
古郡民雄様(84歳)・迪子様(82歳)

〈 人生の選択 〉
 ご主人「昔から、困った人がいると放っておくことができない性格で、学校・職場・カトリック青年労働者連盟と、さまざまな出会いを通じて困っている事に正面から向き合い前に進んできました。38歳で幼稚園を立ち上げた事も大きな選択でした。」
〈 希望の幼稚園設立に向けて 〉
 ご主人「2200世帯の公団住宅に転居した時、ベビーブームだったので、団地内だけで440人の子供達が生まれ、・・・

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『今が一番幸せ。入居して本当に良かった』

寺田様 写真_2.jpg湯河原〈ゆうゆうの里〉寺田陽子さん(85歳)

 教員の主人とお見合い結婚をしたのですが、なんとアルコール依存症である事が判明しました。昼間は良い教師であり温厚な夫であるのに、一旦お酒が入ると変貌し、暴力、暴言の被害を受けました。度重なる恐怖と不安で夫に内緒で家を借り、何度も逃げて行きました。戻って来ると家の中はぐちゃぐちゃに散らかり、物は破壊されています。・・・

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安心の下に趣味に生きる幸せ

湯河原〈ゆうゆうの里〉田島祐子さん(70歳)yuga09.jpg

 母は独身時代、服飾デザイナーでしたので、戦後もオートクチュールのお店を構えて働きながら女手一つで子育てをし、父親の分まで愛情を注いでくれました。その母が80歳を過ぎた頃から徐々に認知症状が出はじめ、木更津の実家で介護生活を送るようになりました。少しでも母の役に立ちたいと、優しい夫に支えられながら、月に2回4〜5日泊りながら母の話相手にと通い続けました。・・・

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動けて、食べて、楽しめる100歳をめざして!

湯河原〈ゆうゆうの里〉富澤茂さん(77歳)yuga08.jpg

「専売公社(現JT)に勤め、塩研究所・塩専売廃止事業、その後たばこ製造試場に移り、主に製造機械の開発に従事していたんだ。在職中の金メダルとも言える日本専売公社総裁表彰を受けたんだよ。でも、53歳の時に妻の体調が悪くなり仕事を辞めて妻が望む生まれ故郷の秋田へ引越たんだ。回復したかに見えたが、59歳の時に筋委縮症を発症し・・・

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ダンスは私の生きがい!

P2-1.jpg湯河原〈ゆうゆうの里〉伊東百合子さん(90歳)

 『私は20歳の時に結婚したの。主人は仕事が忙しい人だったけど休みの日はいつも一緒に過ごしてくれた。中年から二人でゴルフにはまりフルショットができるようにお庭に小さなゴルフ場を作り、スイングの練習を教えてくれたのよ。私達には子供がいなかった事もあって早く入居しようと話しあったの。将来の不安もなくなるし、食事を作らなくてもいいしね。ここでゴルフを思う存分二人で楽しもうと思って・・・

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自分の人生は自分で決める

ygv05.jpg湯河原〈ゆうゆうの里磯村清子さん(79歳)

結婚した夫は、お酒が好きで5時に仕事を終えるとそのまま飲みに行き帰ってくるのは11時。玄関に三つ指ついてお迎えしろと言わんばかりの煩い人だった。友達と旅行に行きたいと思っても「ご飯や洗濯はどうするんだ」と嫌味を言われ、自由に行かれませんでした。夫が26年前に亡くなると、拘束がなくなり、今まで行けなかった海外・・・

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今の生活ができるのは全て夫のお蔭です

ygv04.jpg湯河原〈ゆうゆうの里〉山田弘子さん(86歳)

結婚後、専業主婦として家庭を守ってきました。子供もいなかったので、四十代半ばごろ「自分の人生はこのままでいいのか?何か一生を通じて出来るものはないか」と考えた時、子供の頃好きだった書道を思い出し、どこまで出来るか分からないけれど挑戦してみようと決めました。五十代半ばには師範の資格をとり、・・・

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私たち、毎日が幸せです

ygv03.jpg湯河原〈ゆうゆうの里〉高岡郁夫さん(84歳)・悦子さん(77歳)

定年を期に二人で念願の世界一周旅行に出かけた時、親しくなった方で湯河原<ゆうゆうの里>に入居しているご夫婦がいらっしゃいました。その時私達は、将来安心して暮らせる場所はないかと、丁度探していたところでした。旅行後、その方を訪ねに湯河原駅におりたった瞬間「空気が美味しい!」と感じました。施設の・・・

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やりたい仕事がある、それが元気の秘訣かしら

ygv02.jpg湯河原〈ゆうゆうの里〉藤野れい子さん(78歳)

主人の定年を期に、京都から藤枝に引越をしました。その時すでに主人は癌を患っていたのです。副作用が激しくて、みている私も本当に辛い思いもしました。自宅で看とった後、生きる希望もなく毎日ボーっと過ごしていました。その変わり果てた姿を見て息子も大変心配しました。私は58歳でした。そんな時、主人の担当医の奥・・・

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趣味を満喫して充実した毎日を

ygv001.jpg湯河原〈ゆうゆうの里荒川 清さん

姉が佐倉〈ゆうゆうの里〉にすでに入居していたので、〈ゆうゆうの里〉には最初からとても親しみをもっていて、2年ほど待機登録ののち入居しました。自分自身は、入居するにあたり「元気な限りは今までと変わらない趣味などを継続させて、日々の暮らしを充実させること」を一番の条件としてきました。そのためには、湯河原〈ゆうゆうの里〉周辺の環境と設備、サークル活動や仲間がとても重要な問題でした。私の一番の趣味というのがテニスなので、事前に湯河原周辺のテニスコート設備などを調べますと、3~4箇所あることがわかり、また里の中に同じ趣味をお持ちの方がいることがわかりました。今では知り合った町の仲間と里の仲間で60歳からのメンバーで楽しんでいます。テニス以外にも、ゆうゆうの里外の図書館利用やハイキング、また里の仲間と楽しむ囲碁や、最近はじめた卓球などが今の自分のここでの生活基盤をつくっています。
今までの暮らしの継続だけでなく、さらなるふくらみをもって、湯河原〈ゆうゆうの里〉での生活を楽しんでいる毎日です。